バカ親にアンパ〜ンチ!
日本には古来から「子宝」という言葉がある。世界でも「子どもは未来の宝」だとか「子どもは地球の希望」だとか、いろいろいわれる。
その通り。子どもは宝なんですよ。でもね、原石であって、宝石のようにキラキラと輝かせるには、誰かが削ったり磨いたりしてあげないといけないんですよ。
id:keisuke9498さん「【時事】授業で社会のルールやマナーを学べるか?」
id:doconokoさん「隣席の客」
のお話、膝をポンっと打ちすぎてアザだらけ(ウソ)。
自分の身の回りには良識ある人が多いのに(変わり者が多いが)、なぜ外に出るとこうもマナーが悪い親子が目につくのだろう?
さすがに半世紀も生きていると、幾度となく不快な場面に出くわしてきたが、日曜日にちょっと調べものがあって図書館へと出向いたときのこと。
小学校低学年くらいの小僧男の子が奇声を発しながら館内を縦横無尽に走り回っている。しかも、ビーチサンダルを履いているものだから、パタパタパタパタと騒々しいことこの上ない。後ろからサンダルのカカトを踏んづけて転ばせてやろうかとも思ったが、そこは大人として思いとどまり、やさしく呼び止めた。
「ここはね、みんなが本を読んだり勉強したりするところだから、じゃまにならないように静かにしてね」
ちゃんとしゃがんで視線を合わせて、やさしく言い聞かせた(つもり)。
悪ガキ男の子は、何も言わずふてくされた顔で、ちょうど近くにいた母親らしき女性のもとへと駆け寄った。←だから走るなって
「変なジジィに怒られた」
誰が志村けんやねん。ちゅーか、こんなにナイスなジェントルマンをつかまえて(メタボだけど)ジジィとは何ごとだ。
まぁそれはイイとして。
母親は「ほら、怒られるからとりあえずおとなしくしていなさい」ときた。
はぁ?「とりあえず」ってなんやねん。だいたい「怒られるから」じゃないだろ。「公共の場」で「人さまに迷惑をかけるから」だろ。根本的に間違っているぞ、そこのデブ母親。
id:doconokoさん曰く
ケータイであれ、読書であれ、音楽鑑賞であれ、睡眠であれ、おしゃべりであれ、食事やおやつであれ、公共の場所を自分の私的空間としてくつろいだり楽しんだりすることは、同じ罪であろうと私は思う。
まったくその通り。そもそもこの母親には「公共」という概念すらないのかもしれない。
そしてid:cimacoxさん
子連れの図々しい人を見ると「子連れは何の免罪符にもなりません。むしろそれを見て育つことを考えてください」と思う。
あーもー、言ってやってちょーだい、バカ親に。
しかし、どーしたらイイんでしょうねぇ。
社会のルールやマナーを「教える」ことは難しいとおっしゃるid:keisuke9498さんは
「教える」のではなく、「体験させる」「感じさせる」だと思うんです。
ですよねー。何にしても自ら感じなければ身につかない。
子どものころ、近所にめちゃくちゃ怖い頑固ジジィがいた。
ホウキで頭を叩かれたとか自転車で追い回されたとか物騒な話が多かったので近づかないようにしていたが、ある日、遊んでいたボールが運悪く庭に飛び込んで鉢植えにヒット! 仲間は一目散に逃げて行ったが、ボールの持ち主としては逃げるわけにもいかず、勇気をふりしぼってジジィの家へ。出てきたジジィの顔も見ずに、それこそ頭を地面にこすりつけるくらいの勢いで何度も謝った。返事がないので恐る恐る顔を上げると…
「花屋のとなりのKennyか」
ひぃぃ、俺の名前知ってるよ。
「すみません、植木鉢を割っちゃいました…」
ジジィの顔は怒っていなかった。
「まぁ お上がんなさい」
割れた鉢とボールが転がった庭の見える上品な和室。小さく正座した小僧の前に、ことんとカルピスが置かれた。
目の前に頑固ジジィはいなかった。やさしく穏やかなお爺さんがいた。
なにイイ話してんだろ。そういうブログじゃないのに。
とにかくこのとき、爺さんは「自分が楽しむときは回りに迷惑をかけないように注意する」こと、「もし迷惑をかけてしまったらキチンと謝る」こと、「二度と同じことをしない」ことを子ども相手にていねいに教えてくれた。
どこかで「大切な盆栽をぶっ壊しやがって、このクソガキがっ」と思ったに違いないが、それ以上に、そのクソガキが立派な大人になれるようにという愛情があったんだと今は思う。でなきゃカルピスどころか水も出てこなかったはずだ。
子どもの公共心を育てるのは親の役目であることは間違いないが、こういう愛のある頑固ジジィはいつの時代にも必要だと思う。
さて自分は、図書館の子に対して愛があったか?
いや、単に自分に迷惑だから注意しただけだったな。
その子だって、地球の宝だもんね。ちと反省。